徒然草の世界
鎌倉末期、或は室町初期に、兼好法師により著された『徒然草』の236段には、出雲大神宮の事が記載されています。
丹波に出雲といふ所あり
丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかや、知る所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまた誘ひて「いざたまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させん。」とて、具しもていきたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。
御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。 深き故あらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。むげなり。」と言へば、おのおの怪しみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」 など言ふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらん。ちと承らばや。」と言はれければ、 「そのことに候ふ。さがなきわらはべどものつかまつりける、奇怪に候ふことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直して去にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
現代語訳
丹波国に出雲という所がある。出雲大社に倣って立派に造営した。しだ某とかいう人が領知する所なので、秋の頃、聖海上人や沢山の人を誘って、
「さぁさぁ、皆さん、出雲拝みに参りましょう。ぼた餅をごちそうしますよ。」
と言って一緒にお参りすると、皆、拝んで大層信仰篤くなった。
本殿の前にある獅子・狛犬が反対を向いて、後ろ向きに立っていたので、上人はただならず感じ、
「なんと素晴らしい。この獅子・狛犬の立ちようは、大変不思議だ!この立派な神社の事だから、きっと深い意味でもあるのだろう。」
と涙ぐんで、
「どうです、皆さん。他に類を見ない素晴らしいものとは御覧にならないのですか。それが分からないとは仕方ない人達ですな。」
と言ったので、皆、珍しいものだと思って、
「本当に他と異なり素晴らしいなぁ。都の土産話にでも語りましょう。」
などと言う内、上人はやはり理由を知りたがって、分別のある、何でも知っている様な顔をした神官を呼んで、
「この神社の獅子・狛犬の立てられている様子は、きっと例のある事なのでしょう。ちょっとゆかりをお伺いしたいのですが。」
と言われたので、神官は、
「その事ですか。これはいたずら者の子供がした事です。けしからぬ事です。」
などと言って、獅子・狛犬に寄り、元のように向き合って据え直して去ったので、上人の涙は意味のないものになってしまった事だ。
※現在の獅子・狛犬は当時のものとは異なります。
この段は中高生の教科書に載せられるほど有名で、当時は広大な所領を抱えるなど、全国的に見ても社勢大にして、上下の尊崇極めて篤い神社でありました。
また分霊したとありますが、当宮の社伝によれば、むしろ丹波の地より出雲の杵築宮にお遷し申し上げたとされています。